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のみならず、今後の運動に影響をおよぼす懸念もある
学海の一行が京都に入って旅装をといたのは、二月三○日。西村茂樹が学海らの宿舎にやってきて、協議の結果、哀訴状の太政官奉呈は三月二日、同道するのは佐倉藩家老倉次、佐野藩家老西村、そして小田原?上田?新庄?諏訪の各藩家老、というふうに決まった。 小田原藩の大久保弥右衛門はこの相談にやってこなかったので、翌三月一日、学海がその宿舎におもむいてきのうの決定をつたえた。ここまではよかったのだが、そのあと諏訪藩を訪問したあたりから、なにやら雲行きがあやしくなった。 学海は諏訪藩京都留守居の林魯兵衛に面会して、あす哀訴状を奉ることに決まったといい、太政官への同道を要請した。ところが、林は首を縦にふらない。それどころか、林の返事は次のようなものであった。「朝廷の命令はきわめて厳しく、すでに哀訴の道は絶たれたものと存ずる。わが藩では今回の企てに加わらぬよう、それがしのほうから主人に説くことにする。だから、哀訴状の連署からわが藩主を除名してくれまいか」 これは、学海にとって予想もしないものだった。学海は、このあと同様の用件で新庄藩にも行くつもりであったが、林はそれをあらかじめ知っていたかのように言った。「新庄藩の家老も在京であるが、おおよそは、それがしと同じ意見である。わが藩の正式な返事は明日さしあげる」[#この行2字下げ]余は興醒めながら論ずるもやくなしとて立ちかへり、よしを倉大夫に申す。と日記にある。日記には、新庄藩のほうに回ったとは書いていない,canon eos。おそらくまっすぐ自分たちの宿舎に帰ったのであろう。 諏訪?新庄ともに、江戸城では、佐倉藩と同じ帝鑑の間詰めの譜代大名である。その二家がそろって日和《ひよ》った。とくに、諏訪藩は帝鑑の間取締だし、現藩主はかつて老中職を勤めたこともある。学海らが諏訪藩に期待するところは小さくなかったろうから、そのショックは大きい。のみならず、今後の運動に影響をおよぼす懸念もある,NIKON D7000。 哀訴状はどこまでも哀訴なのだから、反朝廷的な文言があるわけではない。また、それを朝廷に提出する行為がすなわち反朝廷を意味するものでもないし、勤皇の志と矛盾するものでもない。だが、ことを無難に切り抜けようとすれば、罪を問われている幕府に肩入れするのはあまり利口なやり方ではない,トリーバーチ 店舗。哀訴状からわが藩主の名を消しておく、これは、のちのち災いの火の粉を蒙らないための予防線のひとつである。 翌二日朝、はたして諏訪?新庄の両家から、正式に除名の申し出がきた。したがって、この日、太政官に出向いたのは、小田原藩大久保弥右衛門、上田藩掛山政右衛門、佐野藩西村茂樹、そして佐倉藩の倉次甚太夫の四藩の重役であった。もちろん、学海も従う。 巳《み》の刻(午前一○時ごろ)、太政官に伺候して、伝達所(弁事所)において中川|大炊《おおい》を介して哀訴状を奉った。
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